遥かなる わがヨークシャー (Faraway MY Yorkshire) 

リーズ (Leeds)

1 駅前広場のエドワード黒太子像 (Black Prince Edward of City Square)

 まずヨークシャーの旅は、リーズ駅前からはじめることにする。

 リーズはヨークシャー最大の都市で、政治・経済・文化の中心地である。ロンドンから北へ325kmのところにあり、わたしが滞在していた1985年当時は、キングズクロス駅から特急列車インターシティー125のいちばん速いのでも2時間40分かかった。いまは、そんなにかからないかもしれない。
 リーズ駅のホームに降りたち、大きなトランクをガラガラと押してゆくと、改札口で、リーズ大学のS博士と日本人留学生のT君が出迎えてくれた。
 あとになってもうひとり出迎えてくれた人物がいることを知った。駅前のシティー・スクエアーに立つ、14世紀の英雄で黒太子の異名をもつ、皇太子エドワードである。馬上の黒太子は、甲冑を身につけて胸を張り、まさに合戦におもむかんとする勇ましい姿をしている。めざすはフランスか。
 アングロ・サクソン人の修道士ベーダ(673?-735)によると、かつてこの地は「ロイディス」と呼ばれ、ノーサンブリア王エドウィン(在位616-632/633)の王宮の一つがあったとされる。
 しかしリーズは、イギリスのほかの「古い」都市とはちがって「ローマ名」をもっていない。したがって、比較的「新しい」都市ということになるかも知れない。
 ノルマン征服の時代には、人口が200人から300人くらいで、水車小屋と小さな教会があっただけという。いましにてみれば、村のようなものだろう。
 ノルマン征服後この地域は、征服王ウィリアム1世(在位1066-87)の従臣でポンティフラクト城を築いたイルバート・ドゥ・レイシーの領地となった。その後、その子孫のヘンリー・ドゥ・レイシーからシスターシャン修道会のファウンテンズ修道院(水彩画28)に寄進され、その分院になるカークストール修道院(水彩画3)が建設された。
 リーズの北の郊外には、1160年ごろに建てられたアデル教会がる。ごく小さな教会であるが、イングランドでもノルマン様式を伝える、もっともすぐれた例の一つとされている。
 アデル教会の南側の入り口には、ノルマン様式の特徴である上が丸くなったアーチと柱が蛇腹状に幾重にもかさなっている。アーチの上の破風面には、人物や動物とおぼしきものが浮き彫りにされている。福音史家と、羊をともなったキリスト像とのことであるが、いまでは表面がすっかり風化し、輪郭もはっきりしない。それでも中世初期の、原始的ながらも素朴なものを感じとることができる。
 中世以来、ヨークシャーで生産される羊毛はリーズにあつめられ、ヘンリー8世(在位1509-47)の時代には、「リーズは町中が羊毛でおおわれている」と表現されるほど、羊毛工業の盛んなところになっていた。
 16世紀に、イングランドとウェールズにあった多くの修道院が、ヘンリー8世の宗教改革の一環の「修道院解散」によって解散させられた。カークストール修道院も解散させられ、そこで営まれていた紡績や毛織物業・皮革業・製陶業などの経済活動は、地元の実業家にひきつがれた。それらは、その後、リーズが産業都市として発展するもとになったと言われている。


After a great deal of worrying about from where I should start my great journey of Yorkshire, I have decided to start it from Leeds which I respect as my second home town.

By the express train Intercity 125, it took 2 hours and 40 minutes to get to Leeds from King's Cross, London in 1985. It might not take such a long time today.
Dr S. a Reader of the University of Leeds, and a Japanese student, Mr T., studying in the University were waiting for me at the station.
Later I noticed another man who welcomed me in the City Square in front of the station. He was the Black Prince, Edward . I learned during my high school days that the Prince in black armour was a hero of England , fighting against France in the 14th century. But I didn't know much more about him whether he had been a good lord or not.
Beda recorded that the Anglo-Saxons had called here "Loidis" where there was one of the palaces of Edwin, King of Northumbria. However, Leeds does not have a Roman name like York which was called "Eburacum". Therefore, I think, Leeds is not a so old city.
By the Norman Conquest, there lived only a couple of hundred inhabitants with a mill and a small church.
This area, including Leeds, was owned by Ilbert de Lacy, to whom William I gave the land. Later, Henry de Lacy, one of Ilbert's descendants, offered the land to Fountains Abbey. Then its daughter house, Kikrkstall Abbey, was founded.
As I heard that there was an old Norman church at Adel, in the north of Leeds, one day I went to see it. The Adel Church, built in about 1160, was a very tiny but lovely one. It is said to be one of the most typical Norman churches in England. I could see the splendid south doorway with round multi arches surmounted by a panel showing Christ flanked by Evangelists in primitive but a fine relief.


アデル教会 (Adel Church)
<New work for this site>


*ノーサンブリア (Northumbria)  6世紀から10世紀の終わりまでイングランドにあった七つの王国のうちの一つ。

*ローマ名 (Roman name)  スコットランドをのぞくブリテン島の大半は、紀元43年のクラウディウス帝の侵攻後の1世紀から2世紀にかけてローマ帝国に征服され、5世紀の初めごろまで帝国の属州ブリタニアになっていた。ローマ軍は各地に砦や植民都市を建設し、そこにローマ名を付けていった。ローマ時代から続いている古い町は、現在の大きさに関係なくローマ名をもっている。

*ノルマン征服 (the Norman Conquest)  フランスのノルマンディー公ウィリアムは、1066年10月14日のヘイスティングスの戦いでイングランド王ハロルド2世(在位1066)を破り、イングランド王ウィリアム1世となった。これによって、人口が150万人から200万人と推定されるイングランドが、5千人足らずのノルマン人の貴族と騎士たちに完全に支配されることになった。これをノルマン征服といい、ウィリアム1世は征服王とも呼ばれ、ノルマン王朝がはじまることになった。ノルマン征服と呼ばれるのは、ウィリアム1世とその仲間の多くが、先祖をたどればノルマン人だったから。彼らは、アングロ・サクソン人と同族のゲルマン系の北欧民族で、10世紀にデンマークやスカンディナヴィア半島から北フランスのノルマンディー地方に侵入し、その後そこにノルマンディー公国を樹立した。ノルマン人は北欧系でありながらフランス語を話し、ラテン系の文化を身に着けていた。ノルマン征服によってその後のイングランドは、フランスと深い関係を持つことになった。

*ウィリアム1世 (William I)  イングランドのノルマン王朝の祖。彼はイングランド王エドワード証聖王(在位1042-66)の従兄弟の子でフランスのノルマンディー公だったが、ヘイスティングスの戦いでハロルド2世を破り、イングランド王となった。征服王とも呼ばれる。

*ポンティフラクト城 (Pontefract Castle)  リーズの南東約20kmのところにあった城。ウィリアム1世が戦略拠点の一つとして、従臣のイルバート・ドゥ・レイシーに築かせたもの。巨大な城で、中世のイングランドでもっとも強固でもっとも美しいといわれた。宮廷の一つでもあった。シェイクスピアの詩劇にも、古い呼び名のポンフレット城(Pomfret Castle)として登場してくる。ピューリタン革命で破壊され、現在はわずかに基礎の石を残すだけになっている。

*シスターシャン修道会 (Cistercian)  シト―修道会(Citeaux)のことをイギリスではこう呼ぶ。

*ノルマン様式 (Norman)  ノルマン征服後イギリスに入ってきたロマネスク様式の建築様式のこと。壁の厚い重厚な造りで、窓や入口などの開口部が小さく、それらの上部が半円状のアーチになっているのが特徴。イギリスでは、13世紀にゴシック様式にとって代わられるまで一般的だった。教会などでこの様式が見られる部分は、12世紀以前の古い時期に建てられたことになる。

*修道院解散 (the Dissolution of the Monasteries)  1534年、ヘンリー8世は最初の王妃キャサリン・オヴ・アラゴンとの離婚とアン・ブリンとの再婚を機にローマと決別し、国教会を樹立した。そして、教皇庁に直結していた修道会のほとんどの修道院を「修道院解散法」によって解散させた。当時、イングランドとウェールズには九つの修道会があり、それらが所有する宗教施設は1千カ所以上あった。そして最盛期には、1万4千人の修道士と3千人の修道女がいたとされている。修道院は、牧羊をはじめとする農業のほかにも、さまざまな経済活動を活発におこなっていた。しかしその利益のほとんどを教皇庁に上納していた。ヘンリー8世は、それに目を付けたのである。そして修道院のほとんどが、1536年から1539年にかけて解散させられ、姿を消していった。修道院が所有していた建物や広大な土地は国に没収され、その後、実業家などに破格の値段で払い下げられた。修道院が解散させられると、修道院からは金銀や宝石などの財宝はもとより、ステンドグラスや屋根に張られていた鉛板など、金目の物はすべて持ち去られた。その後、修道院は荒れるにまかされて廃墟になっていった。


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