イギリス(イングランド)の古代史をたどる

第2章 ケルトとローマン・ブリテンの時代

 文明化のはじまり

 ケルト人のあとにブリテン島にやってきたのは、ローマ人だった。彼らは、この島の住人をまとめて「ブリトン人」と呼び、ブリトン人の住むこの島を「ブリタニア(Britannia)」と名づけた。
 スコットランドをの除くブリテン島が、かつてはローマ帝国の一部だったということは、知識としては知っていたはずだった。しかし、実際にイギリスに行ってみると、「地中海の人間がよくぞこの寒い北国までやってきたものだ」思うことがあった。
 現在でもイングランドには、かつてこの地がローマ帝国の一部だったことを誇りに思っている人たちがいる。そして、ローマ時代の硬貨を集めたりしている人もいる。
 元首相ウィンストン・チャーチルは、「大英帝国の歴史は、カエサルがブリタニアに上陸したときにはじまる」と言ったそうだ。未開の野蛮人の世界から、文明化されたヨーロッパ社会の一員となり、その歴史を歩みはじめた――ということである。
 イングランド人は、ローマ帝国の一部となって文明化されたか、それともその外側にあって野蛮人の国のままであったかにこだわることがある。イングランドから見れば、ローマに征服されなかったスコットランドやアイルランドは、文明化されなかった野蛮人の国――となるからである。
 しかし、ローマ帝国の一部となって文明化されたことを誇りに思う彼らの大部分が、その後この島に侵入し、ローマ人が残していった町や、「ウィラ」というローマ式の大邸宅を掠奪し、ことごことく破壊していったアングロ・サクソン人の子孫であるということは皮肉なことである。

 カエサルのブリタニア遠征

 ブリテン島に最初に足を踏み入れた歴史上のローマ人は、英語読みではジュリアス・シーザーとなるユリウス・カエサル(Julius Caesar 紀元前100-44)である。
 彼は、ローマがまだ共和国だったころの紀元前58年に、現在のほぼフランスに位置する属州ガリア(Gallia)――英語名ではゴール(Gaul)――の総督となった。そして紀元前51年までの8年間、この地方を遠征してまわった。それは、ライン川を越えてローマの領土に侵入してくるゲルマン人を撃退するためと、ローマの支配に反抗して反乱をくりかえすガリア人を押さえこむためだった。
 この遠征のとき、カエサルは紀元前55年と54年の二度にわたって、ブリタニアにまで足をのばした。
 彼は、8年間のガリア遠征を、『ガリア戦記』として残している。そのなかで、カエサルはブリタニア遠征のようすについても克明に記録している。その冒頭の部分に、「ガリア人との戦争で、敵がブリタニア人に助けられていることを知り、戦争をするには時期が遅すぎたが、ブリタニアにむかって急いだ」とある。

 ガリア北部のガリア人とブリタニア南部のブリトン人は、同じケルト系民族で、彼らは密接な関係にあった。ローマに反抗的なガリア人は、反乱を起こしてローマ軍に追われるたびに、同族の住むブリタニアに逃げこんでいた。そして、そこでブリトン人の支援をうけると、機会を見ては大陸へ戻り、ふたたび反乱を起こす――ということをくりかえしていた。
 そこでカエサルは、ローマの敵を支援しているブリトン人をたたいておく必要があると考え、ブリタニアへの遠征を決意したのである。
 さらに、彼がブリタニア遠征を思いたった理由には、もう1つのことがあった。ローマに新たな領土を加えようという野心である。

 このころのローマ人は、まだブリテン島のことをよく知らなかった。商人をとおして、金や真珠、錫や銅といったものが採れると聞いている程度だった。
 しかしカエサルは、ローマの領土に加える価値があるとみていた。だからこそ、彼は2度もブリタニアに遠征したのである。それも1回目は「戦争をするには時期が遅すぎた」が、本格的な遠征のために、偵察と予備的な調査だけでもおこなっておこうと考えたのである。

 紀元前55年・1回目の偵察的遠征
『ガリア戦記』の第4巻と第5巻によると、カエサルのブリタニア遠征は次のようなものだった(近山金次訳・岩波文庫を参考)。
 紀元前55年の夏も残りわずかとなったころ、カエサルは、ガリア地方が北に位置して冬が早かったにもかかわらず、ブリタニアへと急いだ。ローマに敵対するガリア人が、ブリタニアのブリトン人に助けられていることを知ったからである。
 カエサルは、ブリタニアに行ったことのある商人たちを集め、島のようすをきいた。しかし、島の大きさもわからなければ、そこにいる部族のことも、彼らの戦争のしかたも習慣も、また多数の大型船が入港できる港があるかなども、まったくわからなかった。
 そこでカエサルは、本格的な遠征には時期が遅すぎたが、せめて島の位置やそこに住む人間、港や上陸地点だけでもさぐっておこうとした。そして、まず副官のウォルセヌス(Volusenus)を軍艦で偵察に行かせ、そのあいだに船を準備することにした。
 ところが、この動きを商人たちが知り、彼らをとおして、カエサルの遠征計画がブリトン人に伝わっていった。すると、ブリタニアの多くの部族がカエサルのもとに使節を送ってきて、人質をさしだし、ローマの支配に伏することを約束した。
 カエサルはこれを受け入れ、さらに多くの部族がローマに従うようにするため、彼に忠実なガリア人の族長コンミウス(Commius)をブリタニアに派遣した。
 ブリトン人もガリア人から話を聞いて、ローマ軍が侵攻してくる前に、ローマの支配を受け入れる部族もあったのである。
 カエサルにとって、これはまずまずの順調なすべりだしだった。

 カエサルがブリタニア遠征に用意した軍勢は、第7軍団と第10軍団の2個軍団、合わせて約1万の兵力だった。
 8月25日の夜の日付が変わるころ、ローマ軍の歩兵を乗せた80隻の荷船と数隻の軍艦が出港していった。カエサルはこれとはべつに、18隻の商船で騎兵を送り込むことにしていた。
 カエサルはローマ軍がどこから出港したか記していないが、その港は、ガリアのモリニー族(Morini)の港イティウス(Itius)、すなわち現在のブーローニュシュルメール(Boulogne sur Mer)だったと推定されている。

 8月26日の午前10時ごろ、ブリテン島のドーヴァー海峡の沖に、ローマ軍の船団が姿を現した。
 そのとき海岸の断崖の上では、すでに数千人のブリトン人戦士が待ちうけていた。ブリトン人は島と大陸を行き来する商人たちをとおして、事前にローマ軍が侵攻してくることを知っていたからである。
 ブリトン人戦士でふくれあがった断崖を前に、カエサルは船の錨を下ろし、午後3時ごろまで、船団がそろうのを待った。そして、風と潮の動きが有利になったとみたとき、船団を平らにひろがる海岸へと移動させた。
 カエサルが上陸地点として選んだところは、現在のウォルマー(Walmer)の近くの、傾斜の緩やかな海岸だったとされている。

 ブリトン人は、ローマの艦隊が移動するのを陸の上から追跡し、ローマ軍が上陸してくるのを待った。
 ローマの艦隊は、ブリトン人戦士が待ちうけるなか、海岸に近づいていった。そして、ローマ兵がつぎつぎと海のなかに飛びおり、上陸をはじめた。
 しかし、ローマ軍の上陸は容易ではなかった。船が大きすぎて浅瀬には止められなかったので、ローマ兵は重い武器で両手をふさがれたまま船から海のなかに飛びおり、そのまま波間を進まなければならなかったからである。
 一方ブリトン人は、軽装備で身軽なうえに地形を熟知していたので、馬に乗って波打ち際までやってきては、槍を投げてローマ兵を攻撃してきた。これには、さすがに陸地での戦いになれたローマ兵も、戦意を失って怯んでしまった。
 これを見ていたカエサルは、操縦しやすい小型の軍艦や偵察船に投石器や石弓器をのせ、海岸に近づいて攻撃するように命じた。
 すると、この見慣れない軍艦や投石器の攻撃に、今度はブリトン人が怯み、後退するようになった。
 それでもローマ兵は、海に飛び込んで戦うことをためらっていた。
 すると、第10軍団の旗手が、「敵に軍旗を渡したくなければ、飛びおりろ。俺は国家と指揮官に義務をはたす」と叫び、アクイラ(aquila)――先端に銀鷲のついたローマ軍の軍団旗――をかかげて海に飛び込み、敵のまっただなかへと突き進んでいった。
 これを見ていたローマ兵は、迷いが吹っ切れ、つぎつぎと海に飛び込むと、旗手のあとにつづいていった。

 だがローマ軍は、大混乱していて、隊旗のもとに隊形も組めずにいた。
 一方、どこに浅瀬があるか熟知していたブリトン人は、隊形も組まずにバラバラになって上陸してくるローマ兵を見ると、これをとりかこんで攻撃してきた。
 これを見ていたカエサルは、小型の軍艦に兵をのせると、それを苦戦しているところに送りこんでいった。
 先に上陸したローマ兵は、こうして味方があとにつづいているのがわかると、つぎつぎとブリトン人を攻撃し、彼らを敗走させていった。
 しかしローマ軍は、敵を深追いできなかった。勝敗の決着をつけるために必要な騎兵をのせた船団が、、まだ到着していなかったからである。
 ところが幸運なことに、騎兵の到着を待つまでもなかった。敗走したブリトン人が、カエサルのもとに使節を送ってきて、講和をもとめてきたからである。そして、各地から集まっていた族長たちも、カエサルに伏することを約束したのである。

 ところが、講和は成立したものの、カエサルには不測の事態が起こってしまった。
 ブリタニアに着いて4日目の8月30日、騎兵をのせて出港した船が途中で大風にあい、ブリタニアを目前にしながら大陸へ引き返したり、潮に流されたりしたのである。
 カエサルの不運はこれだけではなかった。その夜は満月で、潮がもっとも高くなる大潮の日だった。しかし、ローマ軍はそのことをまったく知らなかった。そのため、カエサルが部隊の輸送用に陸に引きあげておいた軍艦が潮をかぶり、さらに暴風が吹き荒れて、錨につないでおいた荷船も壊れてしまったのである。
 ローマ軍には帰るための船もなく、船の修理に必要なものも一切なくなっていた。また、ローマ軍は冬にはガリアに戻るつもりでいたので、越冬用の兵糧も用意していなかった。

 一方、ブリトン人の族長たちは、ローマ軍には騎兵も船も兵糧もないと知ると、彼らを兵糧攻めにして、そのまま冬までもってゆくことがいちばんいいと考えた。そうしておいてローマ軍をたたけば、彼らは二度とブリタニアには攻め込んでこないだろうと思ったからである。
 カエサルは、敵のこのたくらみを察知すると、兵糧を集めながら船を修理し、あらゆる事態にそなえることにした。損傷の激しい船から部材をはずすと、それを損傷の少ない船の修理にあて、足りないものは、大陸に使いをだして取り寄せたのである。こうして、12隻の船を犠牲にしたが、残りの船は航行できるようになった。

 しかしこうしているあいだにも、食料を調達に出かけていた第7軍団がブリトン人に襲われるという事態が発生していた。ローマ兵が刈り残されていた穀物畑で刈り取りに夢中になっていたところを、森のなかで待ち伏せていたブリトン人が、騎兵と戦車で包囲し、攻撃してきたのである。
 ブリトン人の戦車は2頭立てで、そこに馭者のほかに6人の兵士が乗っていた。そして、戦車はガラガラと恐ろしげな音をたてながら走りまわり、乗っている兵士はテラという槍を投げてきた。彼らは、戦車から飛びおりて徒歩で戦うこともあった。そして形勢が不利になると、待機させていた戦車に飛び乗って退却していった。ローマ兵は、この戦車を使ったブリトン人の攻撃に、大いに悩まされた。
 カエサルは、第7軍団がブリトン人に襲われたという知らせを聞くと、すぐに救出にむかい、敵を追い払った。しかし、ローマ軍は体制を立て直して陣地の引きかえすのがやっただった。
 このあとの数日間は暴風が吹きまくり、戦闘は一時休止となった。

 その後、天候が回復すると、戦闘が再開された。
 ブリトン人は、ローマ軍が少数であると知ると、各地から歩兵と騎兵の大軍を集め、ローマ軍の陣地を攻撃してきた。
 これにたいし、カエサルはガリア人の族長コンミウスが連れてきた30騎の騎兵を借り受けると、これを陣地の最前列に配し、戦闘隊形を組んでブリトン人を迎え撃った。
 この戦闘はローマ軍のペースで展開し、彼らが優勢となった。戦闘隊形を組んでの戦いは、ローマ軍の得意とするところだったからである。
 そして、ローマ軍の攻撃に耐えきれなくなったブリトン人は、敗走していった。ローマ兵は、これを体力のつづくかぎり追撃すると、多くの敵を殺し、彼らの家を焼き払っていった。
 すると、戦闘のあったその日のうちに、ブリトン人がふたたび講和の使者を送ってきた。カエサルは、前回に課した2倍の人質を要求してこれを受け入れた。そうして、和平が成立することになった。
 この和平は、カエサルにとって非常に幸運だった。ローマ軍が大陸へ戻る、いい機会だったからである。それというのも、季節は夏も終わり、秋分の日が近かった。そして、船は修理したとは言うものの、丈夫ではなかった。カエサルは、このまま冬にむかって暴風の季節になってからでは、とてもドーヴァー海峡を渡ることはできないだろうと思っていたからである。
 ローマ軍は、天候のころあいを見計らって、真夜中すぎに出航し、帰途についた。2隻の船が潮に流されて別の港に入ったが、全船が無事、大陸に着くことができた。
 カエサルの最初の遠征は、こうして終わった。海岸から10マイル(約16キロメートル)と進むことができず、とても遠征と言えるものではなかったが、偵察としては成功していた。野蛮人の戦力も戦い方もわかったからである。
 カエサルは、この試験的な遠征で、ブリタニアを属州化できると考えたにちがいない。彼は大陸に戻ると、すぐに2度目のブリタニア遠征の計画を練ったのである。

 紀元前54年・2回目の遠征
 カエサルが翌年の7月までに用意した軍勢は、前回の2倍以上の、5個軍団の約2万5千の歩兵と、2千の騎兵だった。ローマ軍は、約600隻の兵員輸送船に200隻以上の商人たちの船を合わせると、800隻以上の大船団になった。
 この大船団は、夏の日(カエサルは日付を記していない)の日没に、前回と同じイティウス港をつぎつぎと出航していった。そして、しばらくは南西の弱い風をうけて順調に進んでいたが、真夜中に風がなくなり、朝になると、潮でだいぶ北に流されていることがわかった。そこで、ローマ兵は懸命に櫓をこぎ、昼ごろには、全船が1年前の上陸地点より少し北の、ディールと(Deal)とサンドウィッチ(Sandwich)の中間あたりに着くことができた。
 しかし、そこには敵の姿はまったくなかった。ブリトン人はローマ軍の大船団に恐れをなし、海岸から退いて内陸部に隠れていたからである。そのためローマ軍は、なんなく上陸することができた。
 カエサルは、上陸地点と船団の守備隊として10個大隊、6000の歩兵と300の騎兵を残すと、残りをひきいて内陸部へとむかった。

 ローマ軍は夜のあいだに18キロメートルほど進み、次の日の朝、はじめて敵と遭遇した。そこは、カンタベリー付近、スタウァ川(R. Stour)の岸辺だったと推定されている。
 ブリトン人は、ローマ軍の進軍を阻止しようと、丘の上から、騎兵と戦車で果敢に攻撃してきた。ローマ軍はこれに騎兵で応戦し、ブリトン人を蹴散らして追い払った。
 すると敵は、森のなかの要塞に逃げ込み、その入り口を切り倒した木ででふさいで、そのなかにたてこもった。これに対し、第7軍団のローマ兵が、大楯で亀甲隊形を組んで要塞に突入していった。
 敵はこの攻撃で敗走したが、カエサルはローマ兵に追撃させなかった。知らない土地での深追いは危険であり、また日も暮れかかっていたので、陣地をつくる必要があったからである。

 翌日、カエサルはローマ軍を3つに分け、敵を追撃させた。
 ところが、そのとき彼のもとに、上陸地点の守備隊から悪い知らせがとどいた。前夜の暴風でほとんどの船が破壊され、海岸に打ち上げられてしまったというのである。
 カエサルは、軍団と騎兵に追撃を中止させると、自分だけ急いで上陸地点の守備隊へと戻っていった。
 ローマ軍は、暴風で約40隻の船を失っていたが、あとの船は修理すればなんとか使えそうだった。そこでカエサルは、工兵に大陸の応援をもとめて急いで修理するように命じた。
 そして、船と陣地固めに10日ほどかけると、カエサルは内陸部の軍団のところへ戻っていった。
 するとそこには、各地かのブリトン人の部隊が集結していた。そして、彼らはカトゥウェラウニ族(Catuvellauni)の族長カッシウェラウヌス(Cassivelaunus)に総指揮権をゆだねて戦おうとしていた。
 カッシウェラウヌスは、部族間抗争のなかで力をつけてきた族長で、当時、タメシス川(R. Tamesis)と呼ばれていたテームズ川(R. Thames)の北に領土をもっていた。

 カッシウェラウヌスに指揮されたブリトン人の騎兵と戦車は、ローマ軍の騎兵と激しい戦闘をくりかえした。
 このときブリトン人のとった戦法は、ゲリラ戦だった。彼らは、ローマ軍に追われると、森や丘に逃げこみ、ローマ軍が陣地づくりをはじめて警戒を弱めると、不意に森のなかから現れて攻撃してきた。さらに、彼らはローマ軍の食料徴発隊を待ち伏せては襲ってきた。
 ブリトン人の戦い方は、密集せずバラバラに分散し、次から次へと波状攻撃をしかけてくるものだった。そのため、重装備のローマ兵は、身軽に動きまわる敵を追うこともままならなかった。ブリトン人は、ローマ軍の騎兵が歩兵軍団から離れると、戦車から飛びおり、騎兵をとりかこんだ。そして、勝ち目のない死にもの狂いの戦いを挑んでくるので、さすがのローマ軍の騎兵も油断ができず、非常に危険だった。
 そこでカエサルは、騎兵のすぐ後ろに歩兵軍団をつけ、敵に戦車から飛びおりて戦う機会をあたえないようにした。
 この作戦は功を奏し、敵は敗走するようになった。そして、各地から駆けつけていた部隊も逃げだし、ブリトン人の連合軍は崩壊していった。残るは、カッシウェラウヌスの部隊だけとなった。
 ローマ軍は、タメシス川を渡ると、カッシウェラウヌスの領土に侵攻していった。
 ブリトン人は、正面からローマ軍に向かっていってもかまわないとわかると、ローマ軍が進撃する道から少し離れた森のなかに隠れながら、ローマ軍に奇襲攻撃をしかけてきた。そのため、ローマ軍は彼らの土地に深く入り込んでまで戦うことができなかった。せいぜい行軍しながら、通り道にある集落を掠奪したり、焼き払ったりする程度だった。

 ここで、カエサルが予想もしていないことが起こった。
 カッシウェラウヌスがローマ軍にゲリラ戦を挑んでいたころ、この地方のもっとも有力な部族のトリノウァンテス族(Trinovantes)が、カエサルのもとに使節を送ってきたのである。降伏を申し出るものだったが、それとともに、ローマ軍がカッシウェラウヌスを押さえつけるように求めてきたのである。
 カッシウェラウヌスは、これまでにほかの部族を攻撃することがあった。そして多くの部族は、彼の力がさらに強大になるのを恐れていた。そこで彼らは、ローマ軍が彼を押さえつけてくれることを期待したのである。

 トリノウァンテス族につづき、ほかの部族もつぎつぎとカエサルのもとに使節を送ってくると、降伏を申し出てきた。
 こうしてカエサルは多くの部族を味方につけ、カッシウェラウヌスの本拠地に攻め入ることができた。
 そこは、いまのロンドンの北、セント・オールバンズ郊外のウェルラミウム(Verulamium)にあったと推定されている。
 カッシウェラウヌスの要塞は、森を土塁や壕でかこんだものだった。そのなかには、多くの家畜が集められ、人も集まっていた。ローマ軍は、この要塞を二方向から攻撃した。
 ところがこの間に、カッシウェラウヌスは、海岸地方の4人の部族王に、全軍をひきいてローマ軍の上陸地点の守備隊を急襲するように命じていた。
 しかしこの作戦は失敗し、突撃していったブリトン人戦士の多くが殺されただけだった。一方、ローマ軍は無傷だった。
 それを知ったカッシウェラウヌスは、このままでは大敗北につながり、領土を失うばかりか地位まで危うくなりかねないさとった。そこで、彼は降伏することにしたのである。
 カッシウェラウヌスの降伏は、またしてもカエサルには幸運だった。カエサルは、ガリアでの不測の事態にそなえて、冬には大陸で過ごすことにしていた。そのため、夏も終りかけていたので、戦いをいつまでも引きずりたくなかったのである。
 カエサルは、ブリトン人に人質と税を課し、引き上げることにした。そしてカッシウェラウヌスには、ほかの部族を攻撃しないようにと、厳重に命じた。
 大陸に帰るときも、カエサルは大いに苦労することになった。人質と多くの捕虜で、人員がふくれ上がっていたからである。そのため、ローマ軍は2回に分かれて船に乗らなければならなかった。さらに、1度、兵士を運んだ船がブリタニアに戻るとき、またしても暴風にあい、大陸へ押しかえされてしまうことがあった。
 カエサルは、船が戻ってくるのを待つほかなかったが、気が気でなかった。秋分も間近になり、航海に適さない時期になるのを心配していたからである。そこで彼は、最後はローマ兵をすし詰めにして船に乗せ、大凪をまって出航したのだった。

 こうしてカエサルはブリタニアを征服したが、それは、ブリテン島のほんの一部にすぎなかった。ブリテン島がローマに本格的に征服されたのは、これから百年近くあとのことである。
 それにしても、2度の遠征でカエサルを悩ませたのは、ブリトン人よりも、ドーヴァー海峡の――イギリス人がゲイル(gale)と呼ぶところの――暴風だったかもしれない。


 百年の休息

 カエサルの野心と好奇心は、2度のブリタニア遠征で満たされることになった。そしてその後、彼がこの島に戻ってくることはなかった。
 一方、ブリトン人は、ローマに征服されたといっても、このあと1世紀近いあいだ、自由な独立を享受していた。それというのも、彼らはローマへの貢物や税の支払いをすぐにやめてしまい、またローマも、それを放置していたからである。
 ローマとブリタニアとの関係は、部族によって異なるが、全体的には平和な関係が保たれていた。そしてローマは、ブリタニアが軍事的な脅威とならないかぎり、この島にあまり関心を示さなかった。
 カエサルは、ガリア遠征からローマに戻った6年後の紀元前45年に、終身独裁官となった。しかし、彼は絶大な権力を手に入れたその直後に、暗殺されてしまった。そのあとローマは、長い内乱と共和制から帝政へと変わる、激動の時代をむかえるのである。
 そのあいだ、ローマの詩人ホラティウス(Horatius)が「世界で最辺境の国」と言ったブリタニアには、長い休息の時間が訪れていた。
 そして、ブリタニアとローマとの政治的な関係はうすれていたが、ブリタニアと大陸とのあいだでは、さかんに交易がおこなわれていた。ローマ化された属州ガリアを拠点としていた商人や植民者たちのなかには、ブリタニアに移住してくる者もいた。
 ブリタニアの部族長たちは彼らを歓迎し、ブリトン人の支配層は、みずからもローマ人のように「トーガ(toga)」という衣をまとい、ローマ式の生活や言語をとりいれるようになった。

 紀元5年から40年までカトゥウェラウニ族に君臨した族長クノベリヌス(Cunobelinus)は、ブリタニア南部で勢力を強め、みずから「ブリタニアの王」を名のった。彼はシェイクスピアの戯曲『シンベリーン』のブリテン王シンベリーン(Cymbeline)のモデルとなった族長である。
 カトゥウェラウニ族の都はウェルラミウムだったが、クノベリヌスは、トリノウァンテス族から彼らの都だったカムロドゥヌム(Camnulodunum)――現在のコルチェスター――を奪い取ると、そこをカトゥウェラウニ族の新しい都とした。そしてローマの商人を招き、交易を奨励した。また、クノベリヌスはカムロドゥヌムに貨幣鋳造所をつくり、ローマ式の金貨や銀貨まで発行するようになった。彼は、それができるほどの力をもっていたのである。
 こうなると周辺のブリトン人部族は、カトゥウェラウニ族に脅威を感じるようになり、クノベリヌスの力がさらに強大になることを恐れた。そこで彼らは、初代ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus 在位紀元前27年‐紀元14年)にクノベリヌスを押さえつけるように要請した。
 しかし、アウグストゥスは動かなかった。彼は帝国内のことで手がいっぱいで、ブリタニアのことまでかまっていられなかったからである。

 ローマ史で、もっとも悪名高い皇帝のひとりカリグラ(Caligula 在位紀元37‐41年)は、紀元39年の秋から40年の春にかけて、属州ガリアを遠征してまわった。それは、ゲルマニア(Germania)すなわち現在のドイツを征服して軍事的栄誉を得たいがための、思いつきのようなものだった。
 ところが、彼はガリアにきてゲルマニアの攻略が難しいとわかると、つぎはブリタニアに目をつけたのである。
 しかしこれもまた気まぐれのようなもので、軍隊と戦費をどうするかなど、まったく考えていなかった。なんとか2個軍団は集めたものの、その先の戦費のことなどは、まったくめどがたっていなかった。やむなくカリグラは、ドーヴァー海峡を前にしたブーローニュシュルメールの海岸にローマ兵を整列させ、閲兵式だけをおこなって、むなしくローマへと帰っていった。紀元41年、そのカリグラは暗殺された。
 彼のあとを継いで第4代のローマ皇帝となったのは、クラウディウス(Claudius 在位41‐54年)だった。
 カエサルの最初のブリタニア遠征から、100年近い時がたっていた。そのあいだに、ローマは共和国制から帝政へと変わっていたが、ブリタニアと属州ガリアとのあいだでは交易がさかんになり、ブリタニアがローマの脅威になるようなことはなかった。


 クラウディウスのブリタニア征服

 百年近く平和を享受したブリタニアだったが、その変化の時がきた。紀元40年、強大な権力でブリタニア南部を支配してきたカトゥウェラウニ族の族長クノベリヌスが死んだのである。
 すると、親族のあいだで後継者争いが起こり、その争いはブリタニアのみならず、ガリアのケルト人部族まで巻き込んだ紛争に発展していった。クノベリヌスが、ガリアにも領土をもっていたからである。

 もう一つ、ブリタニアとガリア北部の雲行きをあやしくさせるものに、ドルイドの問題があった。カトゥウェラウニ族の内紛にくわえ、ガリアでローマの支配に反抗的だった狂信的なドルイドたちが騒ぎはじめたからである。
 ローマにとって、ドルイドたちの反抗は、ローマ式社会の秩序と安寧を破壊するもので、放置しておけるのもではなかった。そこでローマ軍は、ドルイドたちをガリアから追放したが、ドルイドたちは同族の住むブリタニアに逃げこみ、そこに活動拠点をつくって抵抗した。こうしてカエサルの時代と同じように、ブリタニアがふたたびローマの平和を背後から脅かす存在となってきたのである。
 
 クラウディウスがブリタニア征服を決意した理由には、以上のようなことが背景にあったが、それと同時に、カエサルのときと同じように、もう1つの理由があった。
 クラウディウスがカリグラのあとを継いで皇帝となったとき、ローマの国家財政は、カリグラの浪費で破綻していた。クラウディウスにかけられた課題は、財政の立て直しと、ローマ市民の皇帝への信頼をとり戻すことだった。
 クラウディウスは、皇帝になったとき、すでに50歳をすぎていた。しかも、彼は軍務についた経験がなく、国家に軍事的に貢献してきたことがなかった。そこで、彼は皇帝として、ぜひとも軍事的な成果をあげておきたかった。そして、ローマ市民を喜ばせるもっとも確実な方法が、領土の拡大だったのだ。
 しかしカエサの時代に、ローマの領土の拡大は、すでに限界に達していた。軍事的に維持することが困難になっていたからである。

 カエサルの暗殺後、内乱をおさめてローマ帝国初代皇帝となったアウグストゥスは、領土の拡大よりも、その維持と防衛に主眼を置いた。
 しかしクラウディウスは、あえて領土の拡大をめざし、ブリタニア征服を決断した。彼にはそれが必要だったからである。

 クラウディウス帝の時代、帝国の軍団の数は27個軍団だったが、そのうちの4個軍団がブリタニア遠征にあてられた。
 紀元43年8月、第2アウグスタ軍団(II Augusta)、第14ジェミナ軍団(XIV Gemina)、第20ウァレリア・ウィクトリクス軍団(XX Valeria Victrix)、そして第9ヒスパーナ軍団(IX Hispana)の4個軍団の2万6千の軍団兵、それにガリア、ゲルマニア、ヒスパニアの補助兵を加えた、総計4万の遠征軍が、ケントの海岸に上陸した。
 上陸地点は、かつてカエサルが上陸した地点より少し北の、サンドウィッチ付近のリッチバラ(Richborough)だったと推定されている。
 遠征軍の総司令官は、クラウディウスと同年齢で53歳のアウルス・プラウティウス(Aulus Plautius)だった。
 クラウディウスは、最初から遠征軍をひきいていたのではなかった。彼は軍事にはまったくの素人だったので、遠征作戦のすべてをプラウティウスにまかせ、征服の準備ができた段階で出陣することにしていたのである。

 プラウティウスの作戦は、ブリトン人の最大勢力であるカトゥウェラウニ族の本拠地カムロドゥヌム(Camulodunum)、すなわちコルチェスターを攻略することだった。そこは、クノベリヌスの2人の息子トゴドゥムヌス(Togodumnus)とカラタクス(Caratacus)によって、厳重に守られていた。しかしここを制圧すれば、ローマ軍はブリタニア南東部を征服したも同然だった。
 ローマ軍は、ブリタニアに上陸すると、西へむかった。しかし、ブリトン人の抵抗はまったくなかった。彼らは、カエサルの2度目の遠征のときと同様に、内陸部にかくれ、ローマ軍の動きをうかがっていたのである。
 遠征軍がメイドストーン(Maidstone)のミドウェイ川(R. Medway)にさしかかったとき、彼らは初めてブリトン人の攻撃をうけた。しかし、ブリトン人の戦い方をすでに知りつくしていたローマ軍は、彼らを簡単に撃破して追い払った。
 ここからコルチェスターへ向かうには、西に大きく迂回し、タメシス川すなわちテームズ川を当時ロンディニウム(Londinium)と呼ばれていたロンドン付近で渡り、北東に進むことになる。
 このころのロンドンは、すでに交易の町となりつつあったが、政治的、軍事的な重要性はあまりなかった。周囲は、大部分が沼沢地だった。
 テームズ川には、すでに木造の橋がかかっていた。これを渡れば、コルチェスターまでは約80キロメートル、ブリトン人の抵抗がなければ、数日で行ける距離だった。
 遠征軍がロンドンまできたとき、プラウティウスはクラウディウス帝に出陣を要請し、彼が到着するのを待つことにした。

 一方、プラウティウスからの連絡をうけたクラウディウスは、すぐに親衛隊をひきいてローマをたった。このとき彼は、新兵器をもっていった。戦闘用の象部隊と駱駝部隊である。
 クラウディウスは船でマルセイユまで行き、そこからは馬車と輿で13日かけてブーローニュシュルメールまで行った。そして、海を渡った。
 9月5日、クラウディウスは、テームズ川の南側で待機していたプラウティウスの遠征軍と合流した。そして9月7日、遠征軍を指揮してテームズ川を渡ると、コルチェスターをめざした。

 ローマ軍がコルチェスターまでの道のりの4分の1、ブレントウッド・ヒル(Brentwood Hill)付近まで進んだとき、彼らはブリトン人の大軍と遭遇した。当時、そこは、サンザシやイバラの生い茂る藪と湿地からなる荒野だったと想像されている。
 ここで、クラウディウスの連れてきた珍獣部隊の出番となった。象部隊は、サンザシやイバラの藪もものともせずに突き進み、ブリトン人を踏みつぶし、蹴散らしていった。駱駝部隊が突撃すると、ブリトン人の2輪戦車の馬は、はじめて見る駱駝の姿とその鳴き声や異臭におどろき、戦車は制御不能となった。その結果、ブリトン人の大軍は大混乱に陥り、総崩れとなっていった。
 ブリトン人の総兵力はわかっていないが、この戦いで、彼らの4千7百人が戦死し、8千人が捕虜となった。それにたいするローマ軍の損害は、死者が380名で、負傷者が6百名だったという。
 クノベリヌスの息子トゴドゥムヌスはこの戦闘のなかで戦死し、もう1人の息子カラタクスは敗走し、その後、ウェールズまで逃げこんでいった。
 ブリトン人はブレントウッド・ヒルの戦いで主力部隊を失い、コルチェスターは容易に陥落した。そして、ブリトン人の部族王11人が、クラウディウスに無条件降伏を申し入れてきた。彼はこれを受け入れ、ブリタニアはローマの属州となったのである。
 クラウディウスはコルチェスターに軍団基地をおくと、そこを州都とさだめ、退役したローマ兵を入植させた。そして遠征軍の総司令官プラウティウスが、属州ブリタニアの初代総督となった。
 クラウディウスがブリタニアに滞在した期間は、わずか16日だったという。そのあいだに彼が征服した地域は、ブリタニアのほんの一部に過ぎなかった。しかし、彼が望んでいた「皇帝クラウディウスがブリタニアを征服した」という歴史上の実績がつくられたのである。




 メイドゥン城の戦い

 クラウディウスが去ったあとのブリタニアの征服は、総督プラウティウスにまかされることになった。
 そしてプラウティウスは、第20軍団をコルチェスターに残すと、あとの3個軍団をひきいて征服行をつづけた。まず、エスックスからサフォーク、ノーフォークへと進み、この地方のイケニ族(Iceni)を制圧していった。
 そのあと、プラウティウスは第9ヒスパーナ軍団をそのまま北上させ、北部の征服へと向かわせた。そして第9軍団は、リンカン(Lincoln、ローマ名リンドゥム Lindum)までの地域を征服すると、そこに軍団基地を構えた。
 第14ジェミナ軍団は、イングランド東部から西へと進み、中部からウェールズの手前のロクセター(Wroxeter、ローマ名ウィロコニウム・コルノウィオラム Viroconium Cornoviorum)までのあいだを征服していった。
 第2アウグスタ軍団は、南へと転進し、南西部の攻略に向かっていった。   

 総督プラウティウスからブリタニア南西部の征服をまかされたのは、33歳の軍団長ウェスパシアヌス(Vespasianus)だった。
 彼の父はアジア出身の税官吏で、ウェスパシアヌスは騎士階級に属していた。ローマ帝国では、この階級は、貴族階級で元老院階級の下に位置する第二階級とされ、一段低かった。しかしウェスパシアヌスは、すでに猛将として名をはせていた。ミドウェイ川の戦いでローマ軍に勝利をもたらしたのも、彼の采配だった。そして彼は、その後も力をつけ、25年後には皇帝にまでなるのである。

 ウェスパシアヌスにあたえられた任務は、けっして容易なものではなかった。それというのも、南西部のブリトン人は、これまでのブリトン人よりも手強かったからである。
 まず、ローマ軍の前に立ちはだかったのは、ベルガエ族(Belgae)だった。彼らは、正面きっての戦闘ではローマ軍にかなわないとわかると、ゲリラ戦にでてきた。そして、ローマ軍の偵察隊や食糧徴発隊を待ち伏せては奇襲攻撃をかけ、そのあと、土塁と壕を何重にもめぐらせた丘の上の砦――ヒル・フォート(hill-fort)――へ逃げ込むということをくりかえした。この地域のブリトン人は、このような砦を500年近く前からもっていた。
 ベルガエ族の抵抗にあったウェスパシアヌスは、まずローマに友好的だった部族の住むチチェスターの港に、軍事物質の補給基地を設営することにした。そしてここを拠点として、南西部のブリトン人の掃討にむかった。
 ローマ軍は、まずワイト島のブリトン人を攻撃したが、そこの部族は、抵抗らしい抵抗もせず、すぐに降伏してきた。ローマ軍はそこを征服すると、そのあと本島へ戻り、さらに西にむかって進軍していった。
 ローマ軍は、ベルガエ族との戦いをかさねながら、彼らの砦を1つひとつ容赦なく攻略していった。ローマ軍は、33回の戦いで、大小20のブリトン人の砦を陥落させたという


 しかし、ローマ軍がドーセット丘陵まで侵攻してきたとき、彼らはこれまでにない激しいブリトン人の抵抗にあった。
 この地域は、ドゥロトリゲス族(Durotriges)という強大な部族が支配するところだった。彼らは、丘の上の巨大な要塞を拠点にして、ローマ軍に戦いをいどんできた。
 その要塞跡が、ドーチェスターの南西2マイル(約3・2キロメートル)のところにある「メイドゥン城(Maiden Castle)」と呼ばれているところである。いびつな長方形に近い形をしたヒル・フォートであるが、長辺に相当する長さが半マイル(約800メートル)もある、巨大な砦である。
 このメイドゥン城のある丘には、新石器時代から人間が住みついていたという。ここにケルト系ブルトン人が巨大な要塞を築きはじめたのは、紀元前500年から紀元前300年ごろだったと推定されている。
 メイドゥン城は、丘の斜面に築かれた、3重から4重の土塁で囲まれている。いちばん外側の土塁は、周囲が2マイル(約3・2キロメートル)もあるもので、この部分を入れると、要塞の総面積は120エーカー(約48ヘクタール)にもなる。ケルト人のヒル・フォートとしては、ヨーロッパでも最大級のものだったとされている。
 土塁の高さは、外側のものも周囲から45フィート(約14メートル)から60フィート(約18メートル)くらいであるが、丘の斜面につくられているので、内側のものは周囲よりも90フィート(約27メートル)から125フィート(約38メートル)の高さになる。そして土塁と土塁のあいだは、壕となっている。
 東と西の2ヵ所に要塞の出入口があり、そこの土塁は、切れ目が互い違いにずらされている。こうすることで、敵が簡単には攻め込めないようにしたのである。
 丘の頂は、周囲より30数メートルの高さのところにあり、上は平らになっていて、その広さは800メートルかける400メートルくらいである。ブリトン人は、この丘の頂の縁に沿って強固な防御柵をめぐらし、そのなかに、最盛期では5千人が暮らしていたと推定されている。
 メイドゥン城は、まさに巨大な城郭都市といってもいいほどの規模をもっていた。ブリタニア南西部のブリトン人は、このメイドゥン城を最後の拠点として、ローマ軍に抵抗したのである。

 紀元44年のこの要塞をめぐる攻防戦は、ローマ軍によるブリタニア征服行でも、もっとも激しい戦闘だったとされている。発掘された遺物から想像されている戦いのようすは、次のようなものだった。
 ローマ軍がドゥロトリゲス族の逃げ込んだメイドゥン城を攻撃すると、ブリトン人は土塁の上から「スリング(sling)」という道具を使って石を投げ、激しく応戦してきた。
 この道具は、2本の皮紐の先につけた皮の袋にこぶし大の石を入れ、これを振りまわし、勢いがついたところで一方の紐をはなして石を飛ばす――というものである。射程距離は数10メートルだったとみられている。ドゥロトリゲス族は、このスリングでの攻撃を得意にしていたという。要塞の跡からは、2万2千個あまりのスリング用の石が発掘されている。
 スリングにたいするローマ軍の武器は、「バリスタ(ballista)」という、台の上に固定された大型の弓だった。木製の弓に動物の毛とガットを撚りあわせた弦を張ったもので、先端に鉄の矢じりがついた大型の矢を、スリングの3倍以上の距離まで飛ばすことができたという。
 このバリスタの攻撃をうけると、ブリトン人は土塁の内側へ内側へと後退していった。そして最後は、防御柵でかこまれた丘の上の要塞にたてこもった。
 すると、ローマ軍の重装歩兵が、大楯をかぶって亀甲隊形(testudo formation)を組み、バリスタの援護射撃をうけながら、土塁の切れ目をぬうように前進していった。
 ブリトン人はそのローマ兵に、防御柵の上からなおも攻撃した。そして重装歩兵が要塞の入口にたどりつくと、その攻撃はいっそう激しくなった。柵の上から槍を投げ、大石を落として激しく抵抗したのである。
 これにたいしてローマ軍は、防御柵の上のブリトン人に容赦なくバリスタの集中攻撃をあびせていった。そのなか、重装歩兵が大楯で身を守りながら、要塞入口の防御柵を打ち壊しはじめた。
 太い丸太をつらねた強固な防御柵は、斧ぐらいでは簡単に打ち壊せるものではなかった。ローマ軍は「アリエス(aries)」という破城槌も使ったかもしれない。「ズシーン、ズシーン」と破城槌の音がメイドゥン城に響きはじめると、中に立てこもったブリトン人の緊張は、悲劇的なまでに高まっていった。
 そしてついに入口が打ち壊されると、ローマ兵はいっきに要塞のなかになだれ込んでいった。
 要塞には、ブリトン人の戦士とその家族がててこもっていた。その数は数千と推定されている。彼らは飼っていた家畜までつれてきていた。
 激しい抵抗にあったローマ兵は凶暴化していた。彼らは要塞になだれ込むと、手当たりしだいにブリトン人を殺していった。戦士だけでなく、老人や女、子供まで皆殺しにした。
 そして、ローマ軍はブリトン人を殲滅すると、要塞を徹底的に掠奪し、最後には火を放ったのである。

 現代になっておこなわれた発掘調査では、灰のなかから、おびただしい数の人骨が発見されたという。ローマ兵の剣で割られた頭蓋骨、バリスタの鉄の矢じりが刺さったままの背骨、切断されたとみられる多くの手足の骨など――が発掘されている。ある1つの頭蓋骨には、ローマ兵の剣によるものとみられる傷が、9ヵ所もあったという。
 しかし、人骨はブリトン人のものだけではなく、ローマ兵のものと思われるものも多数あった。ブリトン人は斧を武器として使っていたが、その斧で割られたとみられる頭蓋骨がいくつも発見されているのである。

 メイドゥン城の陥落は、南西部のブリトン人にとっては決定的な痛手だった。
 一方、ローマ軍は、これでブリテン島の東部と、中部の半分、そして南部を征服したことになった。ローマ軍は、ひとまずリンカンから南デヴォンの海岸を結ぶ線を最初の軍事境界線とし、征服地域の防衛ラインとした。
 征服行をはじめてから4年がたった紀元47年、総督プラウティウスはブリタニア征服に区切りをつけると、1個軍団をひきいて凱旋帰国していった。このあとのブリタニアの征服行は、後任の総督のもとに3個軍団で、また紀元48年からは2個軍団でつづけられた。
 プラウティウスが防衛ラインとしたところには、その後、ローマ式の軍用道路がつくられていった。のちに「フォス路(Fosse Way)」と呼ばれるようになる、全長が190マイル(約304キロメートル)あまりのローマ街道である。
 ローマ軍は、この道に沿っていくつもの砦を築き、分駐隊を配備していった。そしてこの境界線の内側では、ローマの支配と文明化がはじまることになった。
 しかし外側、すなわちウェールズとイングランドの中西部や北部は、このあともローマ人から見れば、未開の、野蛮人が住むところだった。


 ローマに刃向った女王ボアディケア

 ローマ軍は、東部、南部のブリトン人を征服すると、それにつづいて、中部のミッドランズ地方を征服していった。そのあと、ウェールズの北部の山地やイングランド中西部の荒野の攻略にむかっていった。
 そうしているときの紀元60年ないし61年(年代は資料によって異なる)、ローマ軍の背後で、ブリトン人の大規模な反乱が起こった。「女王ボアディケアの反乱(Boadicea's Rbellion)」と呼ばれるものである。
 この反乱は、東部のイケニ族が起こしたものだったが、トリノウァンテス族(Trinovantes)などほかの部族にも飛び火し、一時はローマのブリタニア支配が危うくなるほどの大規模なものだった。
 イケニ族もトリノウァンテス族も、一度、ローマに征服されたあとはローマの支配を受け入れ、必ずしも反抗的なわけではなかった。しかし彼らの根底には、ローマ人の、ブリトン人にたいする税や土地にからむ搾取と、傲慢なふるまいや虐待にたいする不満があった。その不満が、1つの事件をきっかけに一気に爆発し、大規模な反乱に発展したのである。

 ボアディケアはイケニ族の王妃で、本名を「ボウディカ(Boudica)」といった。それを19世紀の詩人テニソン(Tennyson)らが、より詩的な響きのする「ボアディケア」という呼び方をするようになった。そしていまでは、この呼び方がされることが多い。
 反乱のきっかけとなった事件は、イケニ族の相続問題にはじまるものだった。
 イケニ族の王プラスタグス(Prasutagus)には2人の娘がいたが、息子はいなかった。当時、ローマの属州では、部族王が亡くなると、息子がいない場合には、領地はローマに没収されることになっていたという。そこでプラスタグスは、「王の死後は、土地を王妃ボアディケアとローマ皇帝との共有財産にする」という遺言書を残したのである。
 このときのローマ皇帝はネロ(Nero 在位紀元54‐68)だったが、プラスタグスは、領地を皇帝との共有財産にすると遺言しておけば、ローマの役人といえども手がだせず、実質的にはボアディケアのものになるだろう――と考えていたのである。

 ローマは、征服した地域でも、そこに土着していた部族制を廃止せず、これを統治の手段として利用していた。ローマの支配とは、ローマの権威をみとめて税をおさめれば、部族も族長の存在もみとめられ、支配層には土地の所有も許されていた。ローマは、支配地域での覇権が侵されないかぎり、被征服民には寛大なところがあったのである。
 ところが、プラスタグス王が亡くなると、ブリタニアの役人は、王の領地ばかりか、イケニ族の貴族たちの土地まで没収してしまった。さらに、プラスタグスの王宮を襲い、掠奪行為をはたらくと、最後は2人の王女を陵辱したのである。
 このローマの役人の蛮行が知れわたると、イケニ族のなかに激しい怒りが湧きおこり、いっきに反乱へとつながっていった。そして、この反乱はまたたく間にほかの部族へもひろがり、ブリタニアのローマ軍は、征服行をはじめてから最大の危機をむかえることになった。

 反乱の先頭に立ったのは、王妃ボアディケアだった。
 この反乱がローマ人を震撼させたことは、ローマの歴史家の記録からもうかがえる。2世紀から3世紀にかけてのローマの歴史家カッシウス・ディオ(Cassius Dio)は、ボアディケアを「容貌は恐ろしく、目つき鋭く、声は荒々しく、黄褐色の髪は塊となって腰までたれていた」と表現している。
 同じくローマの歴史家タキトゥス(Tacitus)は、「ブリトン人は女をリーダーにして、それに反対しなかった」と驚いている。
 イギリスでは、危機に陥ったときは、古代から女性が国家をみちびいたのである。
 
 それはおくとして、ボアディケアの反乱は、タイミングとしては完ぺきだった。なぜならば、このときローマ軍の大半は、総督スエトニウス・パウリヌス(Suetonius Paulinus)にひきいられて、ウェールズ最北端の島アングルシー(Anglesey)に遠征していたからである。
 この地方では、クラウディウス帝に敗れたカトゥウェラウニ族のカラタクスが首長となり、ローマ軍に追われたドルイドたちとともに抵抗していた。ローマ軍は彼らを殲滅するために出撃し、アングルシーに追いつめていた。
 そこに、イケニ族の反乱の知らせが届いたのである。ローマ軍がそこからブリタニアの東部にまで戻るには――直線距離にして300キロメートル以上あり――いくら急いでも、2週間はかかっただろうと推定されている。そのあいだに、ボアディケアによるローマ人にたいする復讐がはじまっていた。

 2輪戦車にのったボアディケアは、金髪を軍旗のようにたなびかせ、ブリトン人の大軍をひきいたという。
 反乱軍が最初に狙ったのは、ローマの退役軍人が入植してつくった州都コルチェスターだった。
 リンカンに駐屯していた第9ヒスパーナ軍団が州都を救うべくすぐにかけつけたが、つぎつぎと押しよせるブリトン人の反乱軍には、なすすべがなかった。そして、コルチェスターは2日で陥落した。軍団長と皇帝財務官は、州都が陥落する直前に抜けだし、大陸に逃げてしまった。最後まで抵抗したローマ人は、クラウディウス帝をたたえて建てられた神殿に逃げこんだが、反乱軍に襲われ、皆殺しにされた。そして、神殿には火が放たれたのである。
 次に反乱軍が襲ったのは、ウェルラミウム(Verulamium セント・オールバンズ郊外)とロンドンだった。そして2つの都市とも、コルチェスターと同じ運命にあった。
 総督パウリヌスが先遣隊をひきいて急遽、北ウェールズから戻ったときには、ウェルラミウムもロンドンも灰燼に帰していた。
 反乱軍の怒りは、ローマ人だけでなく、ローマに友好的だったブリトン人にも向けられた。そしてローマに協力していたブリトン人は、女、子供も容赦なく殺されたという。
 タキトゥスは、この反乱で7万人が犠牲になったと推定している。
 ブリトン人は、捕らえた敵を奴隷にしたり売買したり、また取引に使うこともなかった。そのため彼らは、敵をみると、ひたすら殺しつづけたという。
 現在のロンドンの下には、いまでもボアディケアの憤怒が、厚い灰の層となって残っているのである。

 ボアディケアの反乱は、ケルト民族の激しい気性が怒りとなって、いっきに爆発したものだった。そのため、反乱を起こしてはみたものの、その後の計画もなく、統制もとれていなかった。
 反乱軍は物質の補給も考えていなかったので、すぐに食料不足に陥ることになった。そのためボアディケアのまわりに集まった者たちは、やがて掠奪者の群れと変わり、食料をもとめてたださまようだけになった。

 反乱軍とローマ軍が対峙したのは、ミッドランズ地方の南部だったと推定されている。
 ローマ軍の数は1万7千、これにたいして反乱軍の数はその3倍近くあったとされている。さらに、反乱軍の兵士には、家族を引きつれた者もいたので、それを入れると反乱軍の数は10万人にのぼっていたという。このブリトン人の大群にとりかこまれたら、ローマ軍も身動きがとれなくなる。
 そこでパウリヌスは、ローマ軍を両脇と後ろを森で守られた谷の上の高台に布陣し、反乱軍を谷のなかに誘うことにした。こうすれば、反乱軍は谷の上のローマ軍に正面から攻めるほかなかったからである。そして、戦闘隊形を組んでの正面きっての戦いは、ローマ軍のもっとも得意とするところだった。
 反乱軍は、数ではまさっていたものの、統制されていなかった。よく訓練されたローマ軍の敵ではなかった。そのため、攻め込んでいったブリトン人は、つぎつぎと切り倒されていった。

 ところで、このときの両軍の布陣については、まったく逆の説もある。ローマ軍が反乱軍とその家族の大群を狭隘な谷間に追い込み、彼らが身動きできなくなったところを、片っ端から殲滅していった――というのである。
 はたして、精鋭のローマ軍と数ではその数倍となるものの家族連れの寄せ集めの反乱軍との戦いは、実際にはどうだったのだろうか。
 ミッドランズ地方の丘陵地帯での戦いだったら、両方が考えられるし、両方とも正しいのかもしれない。最初に、高台に布陣したローマ軍が反乱軍を誘い込んで彼らの勢いをそぎ、つぎに反乱軍の戦力が落ちたところで攻勢にでて、逃げだしたブリトン人を谷間に追いつめて殲滅した――のかもしれない。
 いずれにしても、この戦いで反乱軍はほぼ全滅し、戦場は8万ものブリトン人の死体で埋めつくされた。そしてわずかな者とともに森へ逃げこんだボアディケアは、仲間が全滅したことを知ると、毒をあおって果てたという。
 ところで、ボアディケアの反乱を鎮圧したあとにローマのとった処置は、報復とはまったく正反対のもので、不思議なほど寛大なものだった。その理由はよくわかっていないが、皇帝ネロは、ブリタニアの統治政策を大きく転換することにし、総督を替えてブリトン人との和解をはかったのである。
 ボアディケアの反乱は無駄ではなかった。彼女は、死後、ローマに勝ったのである。
 ブリテン島は、まだ半分も征服されていなかったが、このあとブリタニアには、ローマの法と秩序が根づくことになった。そして、ローマ軍がくるまでは部族間抗争の絶えなかった島に、パクス・ロマーナ(Pax Romana)――ローマの平和――が訪れたのである。
 この平穏な日々は、このあと300年もつづくことになった。
 大陸との交易が盛んになると、ブリタニアにブリトン人の想像をこえる、優雅で贅沢な品々がもたらされるようになった。
 ローマへの忠誠を誓った部族の支配階級には、ローマの市民権があたえられた。そして、部族王たちはローマから技術者や職人を招き、ローマ式の宮殿をたてていった。それは、モザイクでできた床にスチーム式の床下暖房設備、広い浴場をそなえた、文明そのものだった。
 それらをまねて、ブリトン人の貴族や交易で富を得た商人たちも、都市の郊外にウィラ(villa)すなわちローマ式の石造りの大邸宅を競って建てるようになった。このようなウィラの跡は、ローマ化の進んだ東部と南部を中心に、ブリテン島で少なくとも700以上、発見されいるという。


 帝国の限界

 クラウディウス帝がはじめた本格的なブリテン島の征服は、彼の時代が終わる紀元54年までに、後世にフォス路と呼ばれるようになるローマ街道の南東部まで進んでいた。
 紀元48年からブリタニアに常駐したローマ軍は、帝国全体で27個軍団あったうちの2個軍団がだった。
 第9代の皇帝ウェスパシアヌス(在位紀元69‐79)の時代となった紀元69年からは、全体が29個軍団にふやされ、そのうちの3個軍団がブリタニアに常駐し、ブリテン島の征服がつづけられた。そして新任の総督クィンタス・ペティリウス・ケリアリス(Quintus Petillius Cerialis)は、ヨーク(エブラクム Eburacum)に大規模な要塞を築き、そこを第9ヒスパーナ軍団の新たな基地とした。

 ヨークから先のイングランド北部は、冷たい風が吹きすさび、ヒースやハリエニシダ、ワラビしか生えない荒涼とした丘陵地帯が果てしなくつづくところだった。この地方を支配していた部族は、ケルト系ブリトン人のなかでも、とくに好戦的なブリガンテス族(Brigantes)だった。
 紀元60年ないし61年ごろにあったアングルシーの戦いで総督パウリヌスに敗れたカトゥウェラウニ族の首長カラタクスは、同じケルト系のブリガンテス族をたよって、この地方にまで逃げのびていた。
 しかし、ここに君臨していた女王カルティマンドゥア(Cartimandua)は、ローマ文明にひかれ、ローマ軍にたいして好意的だった。
 そのため紀元69年ごろ、ローマ軍がこの地方まで侵攻してきたとき、カラタクスはカルティマンドゥアに捕らえられ、ローマ軍に引き渡されて処刑されてしまった。
 カラタクスは、最後までローマ軍に抵抗したケルト人の首長であり英雄だったが、ほとんど歴史に埋もれてしまった存在となっている。

 『ヨークシャーの丘からイングランドを眺めれば』の第1部第1章で記したように、女王カルティマンドゥアは、反ローマ的だった夫で共同統治の王ウェンティウス(Ventius)を武力で追放し、彼の部下だった男を共同統治の王とした。すると、ウェンティウスら反ローマ勢力は、ヨークの北西約80キロメートルのところ、ダラム州との州境に近いのスタニック(Stanwick)の砦を拠点に、女王にたいする反乱を起こした。
 このブリガンテス族の内紛に、ローマ軍の第9ヒスパーナ軍団が女王に味方して介入してきた。そして数年にわたる戦いのすえ、反ローマ勢力は女王軍とローマ軍の連合軍に敗れ、北へと逃れていった。
 こうしてブリガンテス族は、女王カルティマンドゥアのもとに再統一されることになった。しかしそのあとは、当然のごとくローマ軍の影響力が強くなった。その結果、イングランド北部で最強を誇っていたブリガンテス族の王国は、紀元74年ごろまでに完全にローマ軍の支配下に組み入れられ、やがて滅亡していった。

 ローマ軍は、第11代皇帝ドミティアヌス(Domitianus 在位紀元81‐96)の時代には、イングランドとウェールズの征服を完了していた。
 ローマ軍のつぎの征服目標は、彼らがカレドニア(Caledonia)と呼んでいたスコットランドに移っていた。しかしそこには、ゲール系ケルト人の「ピクト人(Picts)」が住んでいた。彼らは、ブリガンテス族よりもさらに手強い部族だった。
 紀元78年から84年までブリタニアの総督をつとめたアグリコラ(Agricola)は、勇猛果敢な将軍で、在任中に、陸路と海路からスコットランドへの遠征を敢行した。
 まず、彼は着任してすぐの78年に北ウェールズに遠征すると、そこを再征服し、チェスター(Chester、ローマ名デーウァ Deva)に要塞を築いて、そこを第20ウァレリア・ウィクトリクス軍団の基地とした。
 こうしてウェールズを牽制しておいてから、アグリコラはイングランドの北部へとむかい、この年の終わりごろまでに、のちにハドリアヌスの長城が築かれる、ソルウェイ湾(Solway Firth)とタイン川(R. Tyne)をむすぶ線まで侵攻していった。
 翌79年には、ローマ軍はそこを越えてさらに北上し、チェヴィオット丘陵(The Cheviot Hills)を越えた。そしてロウランド地方を転戦しながらフォース・クライド地峡(Forth-Clyde)を越えると、さらにハイランド地方のグランピアン山地(Granpian Mountains)の麓、テイ川(R. Tay)のところまで侵攻していった。
 ローマ軍は、そこからさらに北上しようとしたが、ハイランド地方のピクト人の激しい抵抗にあい、それ以上の侵攻は断念せざるを得なかった。
 しかしアグリコラは、ローマの艦隊をスコットランドの北をまわってヘブリデス諸島(Hebrides)まで航海させていた。そうして彼は、スコットランドの征服を視野に入れていたのである。
 また彼は、スコットランドの征服も時間の問題とみると、そのあとの征服目標を、ローマ人がヒベルニア(Hibernia)と呼んでいたアイルランドに定めていた。
 ところが84年の冬、アグリコラは本国への帰国を命ぜられた。そして彼の帰国とともに、ローマ軍のスコットランド征服計画は頓挫してしまうことになった。
 こうして、スコットランドにも文明化の兆しが見えそうになったが、ふたたび灰色の霧につつまれた、ケルト人の住む未開の地に戻っていったのである。

 ドミティアヌス帝の時代に、州都はコルチェスターからロンドンに移されていた。
 コルチェスターにあった軍団基地もうつされ、ブリタニアの軍団基地は、カエレオン(Caerleon、ローマ名イスカ Isca)、チェスター(デーウァ)、ヨーク(エブラクム)の三ヵ所となり、それぞれに第2アウグスタ軍団、第20ウァレリア・ウィクトリクス軍団、第9ヒスパーナ軍団が常駐し、辺境地域の警戒にあたっていた。
 ローマ軍の1個軍団の定数は、ローマ市民からなる正規の軍団兵が6千で、これにゲルマニアやガリア、ヒスパニア、そしてブリタニアなどの属州各地からあつめられた補助兵が、4千5百から6千がついていたとされている。したがってブリタニアには、3万4、5千のローマ軍が展開していたことになる。
 ローマ人の入植都市と軍団基地はローマ街道でむすばれ、その要所要所には、要塞や砦が築かれた。そしてそこにローマ軍が駐屯していた。
 イギリスの都市名には、語尾にチェスター(-chster)やカスター(-caster)、スター(-cester)のつくものが多いが、これらは、ラテン語で城や要塞を意味するカストゥルム(castrum)からきた地名である。それらの地名は、かつてそこにローマ軍の駐屯地や砦があったことを示している。

 イングランド南部のブリトン人は、ローマの支配を受け入れ、ローマ風の快適な生活を謳歌していた。しかし北部の兵(つわもの)たちは、そうではなかった。
 紀元117年、イングランド北部のブリガンテス族が大規模な反乱を起こしたことがあった。その鎮圧に、ヨークの軍団基地から第9ヒスパーナ軍団が出撃していった。しかし、ローマ軍は反乱軍に壊滅的な敗北を喫し、第9軍団が消滅してしまうという事態が生じた。
 時の皇帝ハドリアヌス(Hadrianus 在位117‐138)は、ブリタニア駐留の2個軍団にくわえて大陸から第6ウィクトリクス・ピア・フィデリス軍団を補充し、反乱の鎮圧にあたらせた。そして反乱がおさまると、第6軍団は第9軍団に代わってそのままヨークに常駐することになった。
 しかしこのあとも、ローマ軍はイングランド北部とスコットランドのケルト人には手を焼くことになった。ブリガンテス族が大人しくなり、ローマ軍がスコットランドの征服をこころみて遠征すると、その背後でブリガンテス族が反乱を起こした。そして、ローマ軍がそれを鎮圧するためにスコットランドから撤退すると、今度はスコットランドのケルト人であるピクト人が南下してきて、ローマ領内を荒らしまわったのである。
 イングランド北部からスコットランドにかけては、ローマ軍の最北端の軍団基地ヨークからも遠くなり、長くのび兵站線は非常に危険だった。つねに野蛮人からの襲撃の危険にさらされていた。ブリタニアには3個軍団が常駐していたが、ローマ軍の征服行にも、そろそろ限界が見えてきたのである。

 ハドリアヌスの長城とアントニヌスの防壁

 ハドリアヌスは、21年間の治世のうち、13年間を属州の視察にあてたという。彼は、121年から125年まで1回目の属州視察をおこない、122年の春から秋にかけてはブリタニアにもやってきた。そして、ロンドンからヨークを経て帝国最北の辺境の地まで視察してまわった。
 そのころには、イングランドの東部と南部はすでにローマ化がすすんでいた。北部とウェールズは、不十分ながらローマの支配するところとなり、文明世界に組み入れられていた。
 しかしスコットランドのピクト人は、ローマによる支配と文明化をかたくなに拒みつづけていた。そればかりか、彼らは、ローマ軍の警戒がうすれると南下してきて、ローマ化した地域を掠奪してまわったのである。
 ハドリアヌスは、辺境の地を視察してこれ以上の帝国の拡大は困難とさると、スコットランドの征服を断念し、政策を大きく転換することにした。彼は、スコットランドのピクト人の侵入を阻止するために、タイン川の河口からソルウェイ湾までのあいだに防壁を築き、ローマ化した文明世界と野蛮人の非文明世界を分断することにしたのである。こうして築かれたのが、全長73マイル(約117キロメートル)におよぶ「ハドリアヌスの長城(Hadrian's Wall)」と呼ばれる防壁である。

 防壁の工事は、ハドリアヌスに命じられた122年からすぐに始まったと見られている。
 防壁は三つの主要な部分からできていて、いちばん外側に壕があり、次に石壁があり、その内側に石壁に沿って走る道路があった。
 石壁は、幅が10フィート(約3メートル)、高さが15フィート(約4・5メートル)のもので、北側すなわち外敵側には、その上にさらに6フィート(約1・8メートル)の狭間胸壁が築かれた。丘の斜面や崖、岩の露出しているところでは、自然の地形がそのまま防壁の一部として利用された。
 石の防壁ができると、その北側には、幅が27フィート(約9メートル)、深さが9フィート(約3メートル)のV字形の壕が掘られた。ピクト人の騎馬隊や歩兵が、簡単には石壁に近づけないようにしたのである。そして石壁の狭間胸壁からは、壕の底まで見渡せ、敵がそこに隠れることもできないようになっていたという。
 防壁の南側に沿っては、軍団の移動のための軍用道路がつくられた。
 防壁の建設には、少なくとも8千5百人のローマ兵が駆り出されたと推定されている。40ヤード(約36メートル)を1ブロックとして、そこに1つの百人隊――実際には80名の兵士からなる――が受けもったという。
 防壁には、1ローマ・マイル(約1・48キロメートル)ごとに「マイルカースル(milecastle)」という砦が築かれ、そのあいだの2ヵ所に監視塔が立てられた。さらに、5ローマ・マイル(約7・4キロメートル)ごとに、ローマ軍が駐屯するための要塞がつくられた。その数は、全部で16ヵ所にのぼった。
 雨が多く寒い辺境の地での作業は、ローマ兵にとっては厳しい過酷な作業だったにちがいない。工事中にもピクト人が襲ってくるときことがあり、ローマ兵は工事用具を槍と楯にもちかえて戦わなければならなかった。
 しかし先住民にとっては、自分たちの土地にかってに侵入してきて壁を築きはじめたローマ人には、我慢がならなかっただろう。工事を妨害するのは当然だった。
 そのため、ローマ軍は防壁の完成を急がなければならなかった。そこで石壁の厚さは、最初のころは10フィート(約3メートル)だったが、途中から8フィート(約2・4メートル)に減らされるようになった。さらに、西側の約50キロの部分は、防壁に使えるような石材が十分でなかったこともあり、土塁だけですまされるようになった。それでも東側の約67キロメートルには、石造りの強固な防壁が築かれた。そして、防壁全体で2千7百立方フィート(約76万4千1百立方メートル)の石が積まれたと推定されている。

 あとになってから、防壁の南側に、土塁と壕からなるもう一本の防衛ラインがつくられた。これは「ヴァルム(Vallum)」と呼ばれていて、「防壁(ウォール)」とは区別されている。もっともヴァルムとは、もともとラテン語で防壁そのもののことであるという。
 このヴァルムの第一の目的は、北からの敵が万一、第1の防壁を突破したときの第2の阻止線であることは確かであるが、それとは別の、いくつかの役割もあったとする説がある。
 1つは、防壁に沿った軍事監視区域と住人の生活区域を分離するものだ――とするものである。もう1つは、国境守備隊の背後、すなわち属州側で反ローマ勢力が反乱を起こしたときに備えたものだ――という説である。
 また、属州側の住人と外敵が通じることを遮断し、彼らが共謀して反乱をくわだてるのを阻止するためものだ――という説もある。属州内のブリガンテス族には、ローマに反抗的な勢力もいたからである。
 いずれにしてもローマ軍の国境守備隊は、北からのピクト人の侵入と、属州内のブリガンテス族の反乱という、両方に備えなければならなかったのである。

 ハドリアヌスの長城は、126年から127年ごろにはほぼ完成していたようである。しかし最終的に完成したのは、130年ごろだったとも言われている。
 ハドリアヌスの長城は、属州ブリタニアの北の防衛ラインとなった。
 しかしこれでローマ軍が、スコットランドの征服を完全に断念したわけでもなかった。ローマ軍は、このあとも何度かスコットランドに侵攻していった。そして、彼らが遠征したときの野営地の跡は、ハイランド地方の中央の山岳地帯の東側の平地部をまわりこむようにして、遠くマリ湾(Moray Firth)の近くまで残されているのである。

 ハドリアヌスのあとを継いだ皇帝は、アントニヌス・ピウス(Antoninus Pius、在位138‐161)である。
 彼の時代の139年から142年にかけて、イングランド北部のブリガンテス族の反乱に呼応した、スコットランドのピクト人の侵入がくりかえされた。これにたいしアントニヌス・ピウスは、ブリタニア駐留のローマ軍に、ブリガンテス族の反乱を鎮圧し、ピクト人を北のハイランド地方まで撃退するように命じた。さらにアントニヌスは、ピクト人の侵入にそなえ、もう1本の防壁を築くように指示した。
 こうして142年から143年にかけて、ハドリアヌスの長城からさらに北へ120キロメートル行ったところの、クライド湾(Firth Clyde)とフォース湾(Firth of Forth)をむすぶ線に、全長37マイル(約59キロメートル)の「アントニヌスの防壁(the Antonine Wall)」が築かれた。これで、スコットランドのピクト人にたいして、2重の防壁ができたことになる。
 アントニヌスの防壁は、基礎に大石を使ってはいるものの、高さが3メートルほどの土塁と壕だけでできたもので、ハドリアヌスの長城ほど強固なものではなかった。
 防壁には2マイル(約3・2キロメートル)ごとに19ヵ所の砦がつくられたが、防壁がピクト人の領域にあまりにも深く入ったところにつくられていたため、つねに彼らからの襲撃の危険にさらされていた。
 155年から158年にかけて、ピクト人は何度もアントニヌスの防壁を突破し、ローマ領内に侵入して荒らしまわった。ローマ軍はそのつど出撃し、彼らを撃退しなければならなかった。
 皇帝コモドゥス(Commodus、在位180‐192)の時代の184年にも、ピクト人は防壁を突破して襲撃してきた。このときの襲撃はとくに激しいもので、撃退するために出撃していったローマ軍の軍団長が戦死するほどのものだった。
 アントニヌスの防壁は、ピクト人に破壊されるたびにすぐに補修されたが、彼らの侵入を完全に阻止することはできなかった。その結果、ローマ軍はついにここから撤退せざるを得なくなった。
 そしてアントニヌスの防壁は、その実効性を十分に示すことなく、200年に放棄されたのである。


 セプティミウス・セウェルスのヨーク宮廷

 ハドリアヌスからアントニヌス・ピウスの時代に、ローマ帝国は最大規模になった。小アジアと地中海沿岸からスコットランドの手前までの広大な領土を、28の軍団、16万8千の軍団兵に属州補助兵を加えた約31万のローマ軍が防衛にあたった。それでも帝国内への蛮族の侵入は、完全に防ぐことはできなかった。
 そして帝国の勢力がピークを過ぎ、その勢いに陰りが見えはじめたころ、帝国内では、軍団の力を背景にした皇帝が乱立し、その後ローマ帝国は、軍人皇帝の時代へと移っていった。
 その最初の兆しが、193年の内乱だった。
 前年の192年に皇帝コモドゥスが愛妾や側近たちに暗殺されると、皇帝親衛隊や各地の軍団が独自の皇帝を擁立し、4人の皇帝が生まれた。元老院議員のディディウス・ユリアヌス(Didius Julianus)、シリア総督ペスケンニウス・ニゲル(Pescennius Niger)、ブリタニア総督クロディウス・アルビヌス(Clodius Albinus)、そしてパンノイア総督セプティミウス・セウェルス(Septimius Severus)である。
 セウェルスは、ユリアヌスとニゲルを相次いで倒すと、イタリア本国で唯一の皇帝となった。
 これにたいしてブリタニアで皇帝位を宣言したクロディウス・アルビヌスは197年、ブリタニア駐留ローマ軍をひきいてガリアに入り、セウェルスに挑戦した。
 両者の軍団は、フランスのリヨンで激突することになった。そしてセウェルスがアルビヌスを倒し、唯一の皇帝となったのである(在位193‐211)。
 
 これで帝国の内乱はおさまったが、ブリタニアにはその代償が高くつくことになった。ローマ軍が留守にしているあいだに、ブリタニア北部のブリガンテス族がが反乱を起こし、属州内を荒らしまわっていたからである。また、スコットランドのピクト人も、ハドリアヌスの長城を越えて侵入してきた。この結果、属州ブリタニアは大混乱におちいり、無政府状態となっていた。
 内乱を勝ちぬいたセウェルスの最初の仕事は、ブリタニアの混乱をおさめ、帝国内にとどめることだった。彼は、ブリタニアに軍団を送りこんで事態を収拾しようとしたが、5年が過ぎてもその効果があがらなかった。
 セウェルスは50歳をすぎて健康を害していたが、ブリタニアが気がかりだった。そこで彼は、みずからブリタニアに出陣して混乱をおさめようと決断した。
 208年の春、セウェルスは、病苦をおして妻と2人の息子カラカラ(Caracalla)とゲタ(Geta)を連れ、ブリタニアに渡ってきた。そして軍団基地ヨークを仮の宮廷とした。それから、セウェルスはそこを拠点にして、ブリガンテス族の反乱をしずめ、ブリタニアを荒らしまわっていたピクト人をスコットランドへと撃退した。
 その後セウェルスは、2度にわたってスコットランドに遠征し、反抗的な野蛮人のピクト人をマリ湾の先まで追い払っていった。しかし、スコットランドを征服するまでには至らなかった。
 セウェルスは、ハドリアヌスの長城を帝国の最終的国境とすると、破壊された防壁を補修させた。
 一方、セウェルスに追い払われたピクト人は、その後すっかりなりをひそめ、このあとの150年間以上も、ローマ領内に侵入してくることはなかった。そしてブリタニアに、北からの脅威に悩まされることのない平和な日々が、ようやくもたらされたのだった。
 しかし2度のスコットランド遠征は、セウェルスの寿命をちぢめていた。彼は211年、ヨークで没し、そこに埋葬されたのである。

 セウェルスの皇帝位を継いだのは、23歳のカラカラと22歳のゲタだった。2人は共同統治の皇帝としてヨークで即位した。
 ちなみにカラカラは、ローマの遺跡「カラカラ浴場」で知られている皇帝であるが、残忍な暴君だった。彼は、すでに舅と妻を殺害するという悪逆さぶりを見せていたが、自己顕示欲と独占欲もつよく、皇帝になった1年後には、ローマの宮殿で共同統治の弟ゲタまで殺害してしまった。しかし217年には、彼自身が直属の警護隊長に暗殺されたのである。

 話をもどすと、ローマはたびたびスコットランドの征服をこころみたが、ついにそれを果たすことはできなかった。
 中世のイングランドのプランタジネット王朝の王たちも野望をいだき、幾度となく軍隊をひきいて乗り込んでいった。しかし、彼らも失敗をかさねるだけだった。
 ブリテン島の北部は、ヒースの生い茂る荒涼とした荒野と、霧につつまれた幻想的な山岳地帯がつづくところだった。そこの住人は、強者におもねって追随することをかたくなに拒みつづけた。そして北の住人は、その後も日がめったに差さない、雨と霧につつまれた緑の大地で、自由な暮らしを謳歌したのである。


 ローマン・ブリテンの終焉

 3世紀のなかごろになると、ローマ帝国の各地で、周辺からのゲルマン系民族の侵入が激しくなってきた。
 そのような状況になっても、帝国内では、各地の軍団に擁立された軍人皇帝が乱立し、内部抗争が絶えなかった。かってに皇帝を名のる者さえ現れてきた。
 ブリタニア駐留のローマ軍に擁立されたカラウシウス(Carausius)も、その1人だった。
 彼は、ガリアおよびブリタニアの海岸を、サクソン人の海賊の襲撃から防衛するための海軍の長官だったが、286年から293年まで、ブリタニアを独立国のように支配していた。

 293年、皇帝ディオクレティアヌス(Diocletianus 在位284‐305)は、帝国を4分割し、2人の正帝と2人の副帝で統治するという「四分統治策」をはじめた。しかし、これはかえって皇帝の乱立と対立を招いただけで、帝国内はますます混乱するばかりだった。
 306年、西方正帝のコンスタンティウス1世(Constantius I 在位305‐306)――彼はコンスタンティウス・クロルス(Chlorus)と呼ばれるときもある――がブリタニア遠征中にヨークで没すると、息子のコンスタンティヌス(Constantinus)が、ブリタニア駐留軍に擁立されて帝位についた(在位306‐337)。
 彼は軍団をひきいて大陸にのりこむと、ほかの3人の皇帝を倒し、324年に帝国を再統一することができた。彼こそ、みずからキリスト教に改宗し、さらにキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝である。
 しかし、軍団の主力を失ったブリタニアの防衛は弱体化し、周辺からの異民族の侵入は、ますます激しくなるばかりだった。

 367年、ブリタニアは重大な危機に見舞われることになった。北と西と東から、野蛮人が示し合わせたように侵入してきたからである。
 すなわち、北からはスコットランドのケルト系のピクト人が、ハドリアヌスの長城を越えて侵入してきた。西からは、ヒベルニアと呼ばれていたアイルランドから、やはりケルト系の「スコット人(Scots)」が海を渡り、海岸線を襲撃してきた。そして東からは、ゲルマン系民族の「アングロ・サクソン人(Anglo-Saxons)」が襲来し、北海沿岸を荒らしまわった。これが「蛮族の共謀(the Great Barbarian Conspiracy)」と言われているものである。
 皇帝ウァレンティニアヌス1世(Valentinianus I 在位364‐375)は、368年、スペイン人の将軍でのちに皇帝となるテオドシウス(Theodosius)をブルタニアに派遣し、その防衛にあたらせた。
 テオドシウスは、侵略者を駆逐して駐留ローマ軍をたてなおすと、2年間でブリタニアに平和と秩序をとり戻すことができた。
 こうして、野蛮人たちのたくらみは失敗し、ブリタニアは救われたかに見えた。
 しかし平和の崩壊の原因は、帝国内にあった。大陸ではゲルマン人の大移動がはじまり、大混乱におちいっていた。それでも将軍たちは、まだ皇帝の座をめぐって争っていたのである。
 テオドシウスのあとをうけてブリタニアの防衛にあたっていたのは、マグヌス・マクシムス(Magnus Maximus)だった。しかし彼は、383年に皇帝位を僭称し、軍団の主力を引きつれて大陸に渡ってしまった。その結果ブリタニアは、ふたたび無防備の状態におかれることになった。



 395年、ローマ帝国は、テオドシウス1世(Theodosius I 在位379‐395)の死とともに東西に分裂した。
 それでもブリタニアには、つかの間の平和が訪れていた。東ゲルマン民族のヴァンダル族の血をひく将軍スティリコ(Stilicho)が、396年から398年のあいだにブリタニア駐留ローマ軍を再編成し、その防衛にあたっていたからである。
 しかし401年、彼はイタリア本国防衛のために、ブリタニアを離れなければならなかった。大陸ではゲルマン人の侵入がますます激しくなり、イタリア本国にまでおよぶようになっていたからである。こうしてローマ帝国は、衰退から崩壊への道をたどっていた。
 406年にも、ブリタニア駐留軍の司令官だったブリトン人が、かってにコンスタンティウス3世を僭称し、軍団を引きつれて大陸に渡ってしまった。そして407年、ついに最後まで残っていたローマ軍も、ブリタニアを離れたのである。
 410年、アングロ・サクソン人がふたたび北海沿岸を襲撃してきた。このとき、ローマ軍を中心としたブリタニアの自治政府は、すでに存在しなかった。ブリタニアには、アングロ・サクソン人に立ち向かう軍隊もなければ防衛力もなく、侵略者のなすがままだった。ついにローマン・ブリテンは、最大の危機をむかえたのである。
 そこでローマの支配下で繁栄と平和を享受していた都市部のブリトン人たちは、西ローマ帝国の皇帝ホノリウス(Honorius 在位393‐423)に助けをもとめた。
 しかし、イタリア本国でさえゲルマン系民族の掠奪に脅かされていて、皇帝は属州のことにまで構っていられる状態ではなかった。
 ホノリウスからブリタニアにとどいた返事は、「これからは自分たちで守るように」というそっけないものだった。ローマは、実質的にブリタニアの放棄を宣言したのである。
 カエサルが最初にブリタニアの地を踏んでから465年がたち、クラウディウス帝の本格的な征服にはじまる3世紀半あまりにおよぶローマの支配は、ついに終焉をむかえたのである。
 そして、ゲルマン系諸民族の侵入と定住が進んだ西ローマ帝国は476年、ついに滅亡していった。

 ローマ人の支配とは、ほかの侵略民族の場合と違って、むやみに先住民を殺戮したり、追い払ったりするものではなかった。先住民であるブリトン人にローマの支配権を認めさせ、ローマ文明を受け入れさせるものだった。
 それは、税としての穀物や特産品をおさめさせ、奴隷をださせ、支配階級にはローマ式の衣装・言語・精神をすすめるものだった。そして、ブリトン人の部族制度の存続と土地の所有もみとめられていた。ローマは、その支配権と権威が侵されないかぎり、ブリトン人をむやみに迫害したり攻撃したりすることはなかったというのである。
 しかし、これはあくまでも征服者側、覇者の論理である。
 ローマ人は軍隊を送りこんで先住民の地を征服すると、そこに退役したローマ兵や商人を入植させ、ローマ人の町や都市をつくっていった。そのため、先住民にとっては、もっとも快適で豊かな土地が奪われることになった。
 それでもブリテン島の東部や南部は、まだ肥沃で比較的平坦な土地がひろがっているので、いいほうだった。ところが、ウェールズやイングランド北部のような不毛の山地や荒野が多いところとなると、そうはいかなかった。人間の生活に快適な土地はかぎられていた。そこを奪われてしまっては、たまったものではなかった。北部のブリガンテス族やスコットランドのピクト人がローマの支配を受け入れなかったのは、そんなところにも理由があったのではないだろうか。

 ローマ人が入植した町や都市のあいだは、ローマ街道でむすばれた。ローマの高官やブリトン人の支配階級が建てた都市郊外のウィラ――大邸宅――は、一般のブリトン人には無縁のものだった。地中海で生まれた快適なローマ式の生活は、あくまでもローマ軍に守られた町や都市のなかにだけあった。しかしそのような生活は、気候風土のまったく異なるブリテン島には、馴染むものではなかった。そのため、ローマ軍がブリテン島から去ってしまうと、ローマ式の生活や制度は、急速に消失していった。


第1章(イングランド史の夜明け)へ
第3章(ケルトの復活とアングロ・サクソンの時代)へ
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